フォトハウス京都の履歴書-3-

1984年11月に発表するフォトハウス構想の原案ができてくるのは、1983年の春ごろでした。
東松照明さんが京都北白川のウイークリーマンションに滞在されるようになっていました。
お会いするたびに出ていた話題は、写真をめぐる環境の活性化、とでもいえばいいでしょうか。
京都という地域の特殊性といえばいいのか、そのことの分析から始まったように思います。
芸能、茶道、華道、絵、などが発祥してきた京都、その文化度の高さといえばよろしいか。
日本の文化の中心として捉えることもできる京都で、新参の写真が活性化するか否か。
1975年でしたか東京で東松照明さんが企画の写真のワークショップが開催されます。
その後、沖縄で取材される東松照明さんのもとで、写真のワークショップが開催されます。
京都においても、その流れの中で、写真のワークショップが開催できないか、というのが問題。
1983年当時は、中川の手元で、映像情報を発行していて、そこで企画の原案を載せます。
大学写真サークルの集まりや喫茶店ギャラリーでの集まりを企画し実行します。
京都写真ワークショップを担うメンバーを養成する、といったことを暗に秘めた会合でした。
結局は、成熟しないまま、フォトハウス構想と言っている企画だけが成熟していきます。
場を設定し、東松照明さんが来る、という話をし、若い人が集まり、会が催される。
それらは、写真家を囲むイベントとしては、それなりの成果があったと思います。
しかし結実しない様子が見えて、うまくいかないなぁ、といった感じで苦笑でした。
東松照明さんが中心になるという話は、東松照明さんからは辞退されていました。
動きだしたら応援はする、という確約で、企画原案をつくっていきました。
1984年11月に、アピール文を発出しますが、東松照明さんは、これにはむしろ反対でした。
全体構想が明らかになると、資本を持ったところが、我がもののように企画するだろう。
時期尚早だ、という見解が東松照明さんでしたが、数人の賛同を得て出発しはじめたのです。

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フォトハウス京都の履歴書-2-

その頃、1980年から中川は「映像情報」という季刊誌を発行していました。
と同時に「季刊釜ヶ崎」という本の発行主体となっていました。
この二冊を、発行の都度、方々へ郵送していたなかに、東松照明さんの名前がありました。
最初に、東松さんと京都で会ったのは1982年の正月です。
東松さんから電話があり、会えないかということです。
夜の九時、河原町三条の六曜社でお会いすることになりました。
革ジャンを羽織った髭のおじさん、東松さんの姿はすぐにわかりました。
こっちこっちといった風に、笑みをうかべて手招きされ、向き合いました。
これが出会いの最初でしたが、その後、頻繁にお会いすることになります。
「東松照明の世界展いま!」の大阪実行委員会が前年12月に発足していました。
中川がそのメンバーに入っていたことをご存じだったからのアポだったのかもしれません。
年末から京都に来ている、京都を写真に撮る予定だ、という話を聞いて、驚いた。
東松さんと会って、食事をしながら、議論というより教えてもらう会話が、その都度ありました。
主には、写真の置かれた状況を、分析する、といった内容だったと思います。
写真をめぐる論、とでもいえばいいか、写真を軸に芸術や文学への多方面に渡る対話です。
東松照明さんの想いとか考え方とか、それを伝えられ、意見を交換する、個人対話です。
当時カメラ毎日の編集長だった西井一夫さんのことの話題が、ままありました。
西井はこういうこと言っているが、中川さんはどう思う、といった話題です。
1982年1月から1985年、東松照明さんが心臓バイパス手術の直前まで、お会いしました。

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