2017年11月14日

体験的写真史-3-

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フォトハウス表現研究所のホームページ
体験的写真史-3-
<写真クラブで学ぶ>
 達さんと知り合って、お家を訪問することになりました。その時はすでに奥さんがガンで亡くなられていて、大学生の息子さんとの二人暮らし。なにかと不自由な生活だとおっしゃっていたけれど、勝手気ままに生きられていたんじゃないかと思えます。新生達栄作、新生光影会、新しく生まれ変わったとよく言われる枠組みの中で、ぼくの写真修業が始まったのでした。先輩多数、同じ年ごろの同輩数人、名をあげれば、田村修二、日高愛勉、米田啓絵江、先輩たちの名前は、また機会があれば載せようと思いますが、いまあげた三人が、ぼくの同輩というところでしょうか。ほかにもいらっしゃるが、存在的には余り近くではありません。田村君はスマートな絵作りでセンスが良かったし、日高君は雑誌の月例をめざしていました。米田さんはシュピーゲル賞を取った女子作家ということで、関西では有名になりかけていたところです。月一回の撮影会、月一回の月例会、学び始めたぼくにとっては、目が覚めるような日々になっていきます。知れば知るほど、このカメラクラブが由緒あるクラブで、まだ歴史的なことはほとんどわかりませんでしたが、京都丹平と光影会が競り合っているというのでした。

 ぼくは全日写連の月例会に参加するようになりました。季節季節の撮影会にも参加していきました。月例会では、提出された写真に審査員の先生が点を入れ、採点が行われ、月の順位が決まるとうもの。年度賞は月例の得点を加算して決めるというもの。ぼくは、年度賞二位を二年連続でいただきました。初年度は途中からの参加、二年度は途中で辞めた、ということでした。当時は、京都新聞社が主宰する写真月例会があり、入選する京都新聞紙面に大きく掲載されるというので、京都新聞のほうがたくさん人が集まっていた、と聞いていましたが、ぼくは参加しませんでした。全日写連の審査員は、和田静香さん、浜岡昇さん、大道治一さん、浅野喜一さん、それに達栄作さん、ほかにもいらっしゃったが、忘れました。京都写壇というのだそうですが、京都には京都の風味があったのかも知れません。大阪の作家たち、大阪の先輩たち、なんだか遠くに存在する人たちという感じで、仰ぎ見る人って感覚で、眺めていたように思えます。

 関西二科会の会員になったのは光影会に所属したからの話で、それでなければ会員になんぞにはなっていなかったと思われます。次第に写壇のヒエラルキー、階層がわかってきて、写連へはクラブ代表で出席するようになり、選抜展とかにも出展するようになり、まあ、大御所の先生たちの横に写真が並ぶ、という見栄えになっていました。でも、ぼくは、どうしたかというと、その世界にどうしても違和感を抱いていて、あるきっかけで、もう辞めよう、と思ったのでした。1979年の春じゃなかったかと推測していますが、そのあるきっかけは、また触れることがあると思います。大きな決断でした。達栄作さんは、絶縁状ともとれる手紙を関係者に送られて、決着をつけられたんだと思います。思えば、達さんとの議論、写真を巡る議論を、何時間にもわたって、何回にもわたって、交わしたのが、達さんにおけるぼく、ぼくにおける達さん、でした。話して、至っていく道筋については、次回にします。
※掲載写真は、取材中の東松照明さん、1982年頃です。
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2017年11月04日

体験的写真史-2-

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フォトハウス表現研究所のホームページ
体験的写真史-2-
<1970年代のおわり>
 写真を撮るということが、外へ出て撮るということに繋がっていて、小説を書くのは夜の密室で悶々としながらの作業だから、それからの解放気分で、それなりにい気分でした。プチブルって言葉を、70年当時には揶揄的に使っていたその気分を得てきているという感じでした。最初に写真団体と関わるのは、朝日新聞社が主宰している「全日本写真連盟」その会員募集の広告を朝日新聞紙上で見て、応募したのです。京都写真サロン展の案内だったかも知れません。個人会員で出品するということ。1976年の春のことことです。なにやら朝日新聞社京都支局の審査会場へ、ぼくは「やすらい祭」のモノクロ写真の見本を一枚持っていきました。担当の人は蒲生右之助さん、かなりお年を召された親切なおじさんおいう感じで、ちょっと考えた後、いいでしょう、と出店を認めてもらいました。当時はまだフィルム現像も印画紙現像もやっていなくて、いきつけの写真店で全紙に焼いてもらうことになりました。ぼくの写真の初出展です。でも、展示しに行った京都市美術館の壁面に並べられた写真を見て、ぼくは、ものすごいショックを受けました。自分の写真が見るに足らないへたくそという感じでした。いまもってはっきりと覚えていますが、これが最初の経験です。

 その年の夏前でしたが、宇治で全日写連の撮影会が開催されるというので、参加しました。モデルの女の子が何人かきて、カメラの前にポーズをとってくれて、撮影という手順です。モデル撮影会は初めてではありませんでした。大阪のデパートで開かれる写真用品ショーとかで、撮影ブースがあって、有名な先生が来ていて、ポーズをつけてくださって、撮影するという経験を何度かしています。また、カメラを買ったお店の案内で、ホテルでのヌード撮影会にも何度か行きました。カラーで撮って、フィルムを預けて、後でもらいに行くというもので、カメラ店の販促の一環だったと思います。さて、そういう経験をしたのちのモデル撮影会で、先輩たちの行動を見ながら、ふむふむこういうことか、と思いながら、モノクロフィルムで撮影しました。思い出すと、この時には、もう、自宅に暗室をつくっていて、フィルム現像、プリント処理、を見よう見まねで本を参考にして、行っていたようです。

 その写連撮影会の帰り、宇治から乗った京阪電車のなかで、向かいに座られていた当日の先生を見つけたのでした。その人の名前が達栄作さんだというのはその後に知ります。会話しているうちに、うちの倶楽部へ来たらいいよ、といわれ、電話番号と住所を教えてもらったのです。深草で国立病院の近くだと聞いていて、数日後にその住所へ赴き、家が探し切れなくて近くの公衆電話から場所を聞いて、訪ねていきました。全く写真団体の事などわからないまま、カメラ雑誌を読んでいたぼくにとって、達さんとの出会いはすごいことでした。当時はもう会の名前が、光影会、という名称で、達さんからは教えてもらえなかったのですが、木村勝正さんが会長のときは「京都シュピーゲル」という名前だった。そういえば光影会の前に「京都シュピーゲル改称」との文字が入っておりました。
※掲載写真は、1979.12、飲み屋聖家族で初個展「ドキュメント釜ヶ崎」のときの記念写真です。

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2017年10月30日

体験的写真史-1-

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体験的写真史-1-
<1970年代の半ばごろ>
 文学を思考していたころ、写真を撮っている友だちを見ていて「なにをお遊びなことをやってるんだ」と思ったことを思い出します。たぶん「反鎮魂」という文学同人誌を発行していたころだから1972年でしょうか。文学、小説を書こうとしていたときで、社会とリンクする行為は、文学こそ本命だと思っていて、芸術と呼ぶ絵画や音楽は無縁だと思っていたし、写真なんぞは、論外で、報道カメラマンなら職業としてあることは知っていたけれど、写真を撮って楽しむなんてことは、プチブルの行為以外のなにものでもなかった、なんて思っていたところでした。そういうことでいえば、現在の社会的位置づけとして、ぼくは全共闘世代で、団塊世代のとっかかり世代に分類されているようです。

 まだ文学部の学生身分を持っていたから妻子ある学生ということになりますが、1970年の安保闘争が終わり、自分の気持ちも、世の中の雰囲気も、すっかり中産階級的なと思われる心情を抱いていくことになりました。子供が生まれ、核家族を形成し、お勤めをするサラリーマン。ぼくの場合は、うまい具合に国家公務員として現業の郵便局に勤めの口を見つけ、それなりに生活が成っていきます。それ以前のことは、ここでは不問にして、カメラを購入するところから話しを始めないといけないです。大学は二部だったので家庭もちの学生でしたが、入学から七年かけて卒業して、その学費が要らなくなったこともあって、カメラを購入することになりました。ニコマート、一眼レフカメラで、それを手にして撮ったのはまだ幼い自分の子、でした。ネガカラーで撮っておりました。

 妻の実家が金沢で、夏には子供を連れて帰省していました。ここに掲載の写真は、内灘へ海水浴に行ったときに撮ったフィルムで、モノクロだから、すでに写真に対しての想いが生成していたころです。このネガの半分以上は家族写真で、そのなかの数コマが、内灘の弾薬庫痕、この写真です。同人誌で小説を発表しますが、その冒頭の場面が、冬の内灘、弾薬庫痕のなかで吹雪から退避するという設定でしたから、親しみ深い被写体ではありましたが、家族ではない被写体の最初が、この写真でした。1975年の夏じゃなかったかと思われます。というのも同時に撮った写真には、子供が写っており、その年齢からみて、ほぼ特定できるところです。モノクロで撮るということは、コストが安い、ということに尽きるわけで、写真屋さんに勧められてネオパンSSSの期限が切れそうなのを安くで買ったから、モノクロフィルムを使ったわけです。当時はもう写真を撮るというとネガカラーの時代でした。

posted by nakagawa at 10:45| 京都 ☁| Comment(0) | 体験的写真史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする