フォトハウスです

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こんにちは、今日は2017年2月8日、水曜日です。
フォトハウスを設立させたのが1984年だから34年ほどになります。
もう昔のことを引きずっているのもどうかとおもうところです。
リニューアルして、今に立って、写真を学ぶ枠組みを作らないといけない。
このように思っているんですが、まずは、意志ある者が集まることを優先させたい。
フォトハウスの最初の時を思いだしていて、勇気を出して、呼びかけようと思ったのです。
あらかじめ定められた枠を、想定どうりに進めていくことが無効なら、どうする。
ここから始められる有志を募ります。
まずは集まってみよう、に賛同される人、日にちは未定ですが4月に集まりませんか。
もう少し時間を置いて、具体的な意思表示の方法などを告知したいと思っています。
新しく組成するこの段階から話しにのって来る人あれば、歓迎です。
facebookに書き込みいただければありがたいです。
なければ成立しない、させないということになります。

フォトハウス京都の履歴書-5-

<先立つモデルはバウハウス>
1982年頃から、新しい学校の枠組みが必要だと思うようになってきたのは、東松照明さんと対話を重ねていくなかでした。次第に明確になってきた構想の原点を、ぼくは1975にはじまる東京でのワークショップ写真学校に想定していきました。でも、それは写真のムーブメントであって、もっと広範囲な領域から構想するのがよい、との話になってきました。では、何をバックボーンにするか、としたときにドイツ、ワイマールに設立された「バウハウス」が立ち現れてきたのでした。1980年代当時、バウハウスのことが結構話題になっていて、翻訳書なども出ていました。フォトハウスという名称は、バウハウスに似ているわけで、それを想定していくことで、わかりやすい。そのようにも思っていたと思いだされます。

趣意書等を発送して、京都新聞にも構想を紹介され、ミーティングを持ったところ十名ほどの方が集まってこられました。趣旨を説明していきました。集まってこられた方たちの意見を集約すると、すでにフォトハウスという器ができていて、あとはワークショップをするだけだ、と解釈されていました。実際には、形のないところからの構築で、その創生に参加しませんかという呼びかけだったのですが。何回目かのミーティングには、出席者がなく、これで終わりだ、というときに現れてこられたのが里博文さんでした。ワークショップをやろうと言ってくれたのが彼でした。すでに開催場所については、静原の鈴鹿さんが自宅を提供してもよいとの意向をもらっていました。事務局にはオリジナルプリントの専門ギャラリーとして開店していた「ギャラリー・DOT」が担うことに決まりました。こうして最初の写真ワークショップが開催されたのは1985年8月のことでした。

1980年代当時、写真を制作するなかで、オリジナルプリントの考え方が、アメリカから輸入されてきていました。写真を扱う専門ギャラリーが東京に誕生し、京都に誕生してきたところでもありました。オリジナルプリントとは、技術的側面から、そのプリントの処理法などが模索され、一定の処理法がオーソライズされてきたころでした。日本においても、その必要性があると、一部の関係者には思われていたところでした。その時代の写真処理の最前線、といえばいいかもしれません。アンセルアダムスが考案したという「ゾーンシステム」を使って、永久保存のための「アーカイバル処理法」などの一般公開ワークショップを開催しようとの話になりました。英国で写真法を学んでこられた里博文さんの発案で、その方法を講座化することから始まったのでした。

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フォトハウス京都の履歴書-4-

<設立趣意書>
1984年11月15日付で設立の案内を関係方面へ郵送します。名称は「写真舎<PHOTO HUSE>」設立準備会で、その代表は中川繁夫の記名です。案内の内容は、設立趣意書の「送付文」と「現在日本の写真状況における当面の課題」と題した文書です。ここに書き写しておきます。

「送付書」
 この度、かねてより企画中でありました、写真舎「フォトハウス」を設立する運びとなりました。つきましては、設立趣意書ならびに当面行っていく事業内容、および達成すべき課題と組織編成図をここに明らかにし、より感性されたものとしていくために、皆様方のご意見とご指導を仰ぐ次第です。
 追って、より具体的な事項、たとえば総務事務局の構成についてや、運営委員会等を構築していくための集まりのご案内を差し上げようと思っていますので、その節には皆様方にお集まりいただいて、具体的な事業の内容を細部にわたって決めて行きたいと考えています。
「現在日本の写真状況における当面の課題」
 いま、日本の現状において、写真と写真家が置かれている現場は、ますます多様化する価値観のなかで、様々な問題をはらんでいるようにも見うけられます。写真と写真家をめぐる諸問題は、たとえば現在の多様化した写真表現をどのような視座からとらえていくか。また写真家として表現された写真をどのように解読していけばよいのか。そして写真家は、現在、いったい何をどのように撮ればいいのか。
 80年代半ば、すべての価値観が拡散してしまったかのように見えるいま、写真家たろうとする写真家は、これらの問題を考えていく土壌を創り出すことから始めていかなければならない。
 これら個々の問題については、ことあるごとに、何時においても語り論じられてきたところだ。しかし、これらがひとつのパワーとして結実するには至ってはいない。
 現在、日毎、写真は数多く発表されている。しかし、これら発表される一つひとつの写真についての具体的な評価や、より写真表現としての、優れた展開のための方法といった批評は、おおむね表面立って現れてはこなかったように見受けられる。
 「いま、写真とは何なのか」という問題提起の場が、総合的な視座、あるいは歴史的な視座から見て、欠落していたように思われる。
 いま、巷にあふれる写真の群たちの一つひとつに、どのような評価を与え、それらの写真群を、何処へ持って行こうとしているのか。これが、当面の私たちが背負った、問題解決への論拠となる出発点であろう。
 いま、写真舎「フォトハウス」の設立の意義は、次の世代へ向けての写真と写真家がいかにあるべきかと、そのあり様を問う現場として、写真を考える人々の意識ある結集のもとに、写真における新しい価値概念を創出していくことにある。
 ここに、現在の写真と写真家がかかえている諸問題へ、ダイレクトに価値と論拠を与えていける場として機能していけることを、写真舎「フォトハウス」設立の趣意とする。1984.11.1

この文書と一緒に郵送され、公表された案内があります組織図案で、翌年1985年1月に、呼びかけに集まられた人達、十名ほどいらしたかと記憶していますが、京都府庁前の「まつもと設計事務所」にて会合をもつことになります。(以下、続きます)

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フォトハウス京都の履歴書-3-

1984年11月に発表するフォトハウス構想の原案ができてくるのは、1983年の春ごろでした。
東松照明さんが京都北白川のウイークリーマンションに滞在されるようになっていました。
お会いするたびに出ていた話題は、写真をめぐる環境の活性化、とでもいえばいいでしょうか。
京都という地域の特殊性といえばいいのか、そのことの分析から始まったように思います。
芸能、茶道、華道、絵、などが発祥してきた京都、その文化度の高さといえばよろしいか。
日本の文化の中心として捉えることもできる京都で、新参の写真が活性化するか否か。
1975年でしたか東京で東松照明さんが企画の写真のワークショップが開催されます。
その後、沖縄で取材される東松照明さんのもとで、写真のワークショップが開催されます。
京都においても、その流れの中で、写真のワークショップが開催できないか、というのが問題。
1983年当時は、中川の手元で、映像情報を発行していて、そこで企画の原案を載せます。
大学写真サークルの集まりや喫茶店ギャラリーでの集まりを企画し実行します。
京都写真ワークショップを担うメンバーを養成する、といったことを暗に秘めた会合でした。
結局は、成熟しないまま、フォトハウス構想と言っている企画だけが成熟していきます。
場を設定し、東松照明さんが来る、という話をし、若い人が集まり、会が催される。
それらは、写真家を囲むイベントとしては、それなりの成果があったと思います。
しかし結実しない様子が見えて、うまくいかないなぁ、といった感じで苦笑でした。
東松照明さんが中心になるという話は、東松照明さんからは辞退されていました。
動きだしたら応援はする、という確約で、企画原案をつくっていきました。
1984年11月に、アピール文を発出しますが、東松照明さんは、これにはむしろ反対でした。
全体構想が明らかになると、資本を持ったところが、我がもののように企画するだろう。
時期尚早だ、という見解が東松照明さんでしたが、数人の賛同を得て出発しはじめたのです。

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フォトハウス京都の履歴書-2-

その頃、1980年から中川は「映像情報」という季刊誌を発行していました。
と同時に「季刊釜ヶ崎」という本の発行主体となっていました。
この二冊を、発行の都度、方々へ郵送していたなかに、東松照明さんの名前がありました。
最初に、東松さんと京都で会ったのは1982年の正月です。
東松さんから電話があり、会えないかということです。
夜の九時、河原町三条の六曜社でお会いすることになりました。
革ジャンを羽織った髭のおじさん、東松さんの姿はすぐにわかりました。
こっちこっちといった風に、笑みをうかべて手招きされ、向き合いました。
これが出会いの最初でしたが、その後、頻繁にお会いすることになります。
「東松照明の世界展いま!」の大阪実行委員会が前年12月に発足していました。
中川がそのメンバーに入っていたことをご存じだったからのアポだったのかもしれません。
年末から京都に来ている、京都を写真に撮る予定だ、という話を聞いて、驚いた。
東松さんと会って、食事をしながら、議論というより教えてもらう会話が、その都度ありました。
主には、写真の置かれた状況を、分析する、といった内容だったと思います。
写真をめぐる論、とでもいえばいいか、写真を軸に芸術や文学への多方面に渡る対話です。
東松照明さんの想いとか考え方とか、それを伝えられ、意見を交換する、個人対話です。
当時カメラ毎日の編集長だった西井一夫さんのことの話題が、ままありました。
西井はこういうこと言っているが、中川さんはどう思う、といった話題です。
1982年1月から1985年、東松照明さんが心臓バイパス手術の直前まで、お会いしました。

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フォトハウス京都の履歴書-1-

「フォトハウス京都」の設立は、1984年11月15日に文書を郵便で発送したその日としています。
中川の手元で、フォトハウス構想が練られてくるのは、1982年の秋ごろです。
1983年8月発行の「映像情報」第11号にフォトハウス構想の記事を書いています。
<展覧会と出版と議論による共同研究の三機能を有機的に結合させたコミューンの建設である>
当時、写真家の東松照明さんが京都取材に取り組まれ、頻繁に京都通いをされていました。
東松さんが京都へ来られるその都度、中川が同伴、同席し、写真についての会話をする。
写真の内容論もさることながら写真の状況論とでもいえることについての会話。
そのなかからフォトハウスの構想が徐々に明確になってくるのでした。
フォトハウス京都が主宰する最初の写真ワークショップは、1985年の夏でした。
一泊二日の日程で、里博文さんが講師役の「ゾーンシステム」講座でした。
開催場所は京都は左京区静原にお住まいの鈴鹿さんの工房でした。

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